山口市の黒川地区は、ただの住宅街ではないんです!
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山口市黒川地区であまり知られていない歴史を紹介し、あたらしい観光スポットにするブログです。
山口市黒川地区は、山口大学の学生が沢山住んでいる住宅街である。フジグラン山口店がその中央に構えており、買い物客でにぎわいを見せている。
実は、黒川地区はかなり巨大な面積を持つ。山口盆地を形成する山々の中では、かつて様々な戦争が巻き起こっていた。
今回はその儚い歴史をたどりながら、山口市黒川地区を観光地化していく。
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このように眺めていると、やはり山口市というのは大きな山に囲まれた場所だと理解できる。この山口藩を狙って、かつて様々な武士たちが山口盆地へと侵攻した。
今回見ていくのは、戦国時代と明治時代の出来事である。
明治時代:藤山佐熊(ふじやま すけくま)の墓
昔々、ある黒川地区には小さなお墓がひっそりと佇んでいました。そこにはなんと、奇兵隊の一員である「藤山佐熊」の墓がありました。
奇兵隊とは、江戸幕府を倒し、明治維新の立役者となった軍隊です。そして明治時代の幕開けには、新しい兵隊制度の導入がありました。
しかし、その選考方法はまるでおかしく、戦果よりも家柄を気にしてしまったのです。これに納得いかない奇兵隊員たちが脱隊し、「脱隊事件」が勃発!
同時期には農民一揆も巻き起こり、山口藩庁が大ピンチ。この大混乱を先導していたのが、なにをかくそう藤山佐熊でした。しかし、結局は脱隊兵たちは討伐軍によって鎮圧され、むなしい結末を迎えることとなりました。
戦国時代:四十九ヶ原 古戦場
1569年、織田信長が勢いを増す中、山口では毛利輝元がこの地を収めていました。その傍らでは、かつて山口を収めていた大内氏の生き残りが奮闘していました。
大内輝弘率いる大軍が山口に侵攻し、毛利元就の家臣である井上就貞は必死に抵抗。四十九ヶ原の古戦場で果敢に戦い、討ち死にしてしまいました。
しかし、その後、大内輝弘も帰還した毛利輝元の大群によってあっけなく鎮圧。命の価値が軽く扱われ、虚しさと切なさが漂う結末となったのでした。
まとめ
これらの悲劇から、制度の変革や選考の公平性、指導者の責任、そして命の儚さに敬意を払うことの田大切さがわかると思う。
これからの時代を生きていく私たちもこれを教訓として、社会や組織の健全な発展に寄与することが重要である。
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